『人生の主役は自分』ってよく聞きます。
『私が人生を創造している』。
人生いろいろあって、いろんな人に出会い、スピリチュアルを学び
今はそのことは事実であると実感しています。
証拠を集めるように、現実にも体感できることが増えてきて、納得しています。
だから、それこそが真理であることはわかります。
でも・・実際に『人生の主役は自分』っていったいどういうことでしょう。
自分にスポットライトがあたり、自分がキラキラと輝くように自分軸で生きる事
自分の存在は誰かの喜びとなり、愛を体感し、表現できる事。
大きく言うと私はそういう風に思いました。
では・・
それっていったい誰が感じるの?
人から今あなたは主役ですよって言われない限り、『主役』と感じるのは私です。
今自分にスポットライトが当たっていることを知るのは私。
とても生き生きと自分を感じて生きるってことを実感するのは私。
主役って自分で感じるためには、スポットライトが当たっていることを知らないといけないし、感じないといけないですよね。
今目の前に創り出している現実が自分が作り出しているならば、スポットライトが確実に当たっていることを実感するときはすでに、自分でスポットライトが当たっていることを十分に知っている状態です。そうした現実を目にすることが出来たら確実に主役はわたしと言い切れるでしょう。
でも、今の現実で『主役は私』って感じる事って難しくないですか?
もし難しくないならば、おそらく『私が主役』であることを確実にやれている人だと思います。
でも難しいと感じる方は『主役』であると実感できる現実が目の前に起こってないから、主役=自分ではなく、主役≠自分だと思ってしまうと思うのです。
そう、自分で『私が主役』な状態を感じることが難しいのです。
今自分にスポットライトが当たっていることを知っている私。
とても生き生きと自分を感じて生きるってことを実感する私。
自分はすでにいるだけで誰かの喜びになっていることを知っている私。
常に愛を感じ、そして愛を表現していることを実感している私。
これが『私が主役』である状態です。
『私が主役』という定義を広げるならば、
さらに、≪実感している私、知っている私≫は増えてきます。
例えば、お子さんがいる方の『私が主役』の定義には<子供の人生は子どものものであり私が生きることに関与しない。>があるかもしれません。
<子供の人生は子どものものであり私が生きることに関与しない。> を実感するためには、【すでに子供を信頼して手放していること】を実感している私でないといけないわけですよね。
こうやって『私が主役』の定義が増えるたびに、そうなっている私をすでに[知っている、実感している私]が増えるということです。
これを読んでぞわぞわする部分には『私は主役』になることに怖さや不安、執着や罪悪感などが足止めになっていて、自ら『私は脇役』に徹してしまっている部分があるのではないでしょうか。
『私が主役』はキラキラしていて輝いていますが、それに伴った責任も持ち合わせています。人のせいにはできません。また、本当の私で生きるために隠れ蓑がありません。
『私が脇役』にはまだ甘んじられる余地が残されているのです。
主役のようにキラキラした充実した幸せは手にできなくても、脇役でいれば大きな痛手を負わなくても済むから。痛手を負うのは怖いですのもね。
でも『私が主役』が真理ならば、脇役ではなく主役になりましょう。
私であれば
今自分にスポットライトが当たっていることを知っている私。
とても生き生きと自分を感じて生きるってことを実感する私。
自分はすでにいるだけで誰かの喜びになっていることを知っている私。
常に愛を感じ、そして愛を表現していることを実感している私。
でいるために、ぞわぞわする部分に向き合います。
人によってはもっと違う『私が主役』の定義があるかもしれません。
素直に自分の気持ちを確かめます。
なんでぞわぞわするの?
そうしたら『だって・・●●なんだもん・・』って返事が帰ってきませんか?
その言葉は大切な大切な言葉です。
そこから未来は広がります。
長くなってきたのでこの先は明日のブログで綴りたいと思います。
主役を張るには覚悟がいるのです。
私にもまだ『脇役』どころか『見習い』の部分があります。
すべて主役になって人生を謳歌しましょう。
どうでもいいですが・・
今日初めて『カピパラ』の事を『カピバラ』だとしりました。
どうでもいいですが・・・(´▽`*)発見